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Kento Koumura (裄乃由紀野)によって2006年〜2010年にかけて公開された記事のアーカイブです。

傍観者的才能論 Ver.beta

フィクション世界において、典型的なダメ人間のイメージとして語られることが多い「野比のび太」。勉強はダメ運動もダメと見事に「模範的小学生」の裏返しとなっている彼ではあるが、いくつかの「才能」を持っていることは意外と忘れがちだ。

それが「射撃」と「あやとり」、ちょっと違うかも知れないけど「昼寝」も。

彼は日常においてそれらを隠すように暮らしながら、自らの能力が問われる場面*1においては数々の技を発揮。天性の技術で人々を圧倒し、劇的な勝利と栄光を飾る――大袈裟ではない。実際にこの三つの才能は作中で存分に発揮されている*2

それでも普段の生活ではドジでのろまな存在となっているのは何故か。あれだけの才能があればもっと違う人生送れるのでは……というわけで二つのキーワードを挙げてみることにした。一つ目は「才能は社会がそう決めたもの」。二つめは「人間には皆同じだけ才能が与えられる」。どちらとも今日の思い付きだから、間違ってても許せ。以下本題。

――例えば、あなたは世界を司る神様で、ふと日本を見ていて、そこには二人の日本人がいるとする。一人は有名なスポーツ選手、一人は地味な科学者といったところか*3。どちらも熱心に活動して、それなりに成果を挙げているというのに、人々はスポーツ選手ばかり褒めたたえる。昨日の試合が話題になり、にわかファンが急増する。CMが増え、グッズが売れる。それは「社会がそれを才能として受け入れた」からに他ならない。これは普通の社会。

ここであなたは神様だから、モノは試しと科学者にノーベル賞をあげてみる*4。すると人々はスポーツ選手のことなど忘れて科学者を褒めたたえる。新聞の一面はその地味で素直な笑顔で埋めつくされ、テレビではその技術を何とか噛み砕いて解説しようとする。普通の社会がちょっと違う結果に。大衆の関心がノーベル賞によって動き、話題にもならなかったことを才能としてを受け入れる転機となった。

そういう感じで、才能のあるなしは人々が勝手に決めたようなもの。本質的な能力や技術力はもはや関係ない。誰かが「このひとすごーい」と言えば「このひとは才能がある」ということになるし、「どうもイマイチだなぁ……」と言えば「このひとは才能がない」ということになる。だから「才能は社会がそう決めたもの」。

要は、のび太がああいう生活なのは「小学生に必要の無い才能」ばっかり持っているからと言えよう。だからこそ非日常の「銀河超特急」とかで活躍できるわけだけど。

ということは、あなたが「才能の無いひと」と思っている誰かだって、もしかしたら「そういう一面を知らない」だけかもしれないし、あなたがもし「自分には才能なんて無いんだ」と思っているとしても、それは「違うやり方がある」だけかもしれない。それをどんどん進めていくと、結果的には「人間には皆同じだけ才能が与えられる」という感覚に近付いていく、ということなのかも。

誰もが違う感性を持っていて、誰もが違う方向を向いているような、才能なんてそんなもの。

というか、これをまとめるのに二時間半もかかった私には「ブロガーの才能」なんて無いようなのでした。あぅ。

*1:無論「もしもボックス」で環境を変えちゃうことも多いのだけれど

*2:と、思う。興味のある方はご自由にお調べ下さい

*3:あくまで一般例

*4:そんなことが出来るかは……神様に聞いて下さい